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『清少納言の墓』と言われる小さなお堂 【旅行・宿泊・観光】

あま塚

TEL.   更新日:2012年03月06日
最終更新日: 2012年03月06日
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あま塚の紹介

車一台がやっと通れる、細い細い路地を抜けた先にあるお堂です。建物の中に、五輪の古い石塔が祀られており、婦人病や安産の御利益があるとされています。旧暦の10・11日、特に3月の10・11日は大祭に当たり、今も女性の参拝客が多く見られます。
『あま塚』のいわれは3つ
一つ目は、[日本書紀]に出てくる阿波出身の海人・男狭磯(おさし)を祀ったという説。弁恭(いんぎょう)天皇のために命がけで明石の海から大アワビを採ったとされる人物です。
二つ目は、鎌倉時代の[承久の変]の後、父の後鳥羽上皇と共に島流しとなり阿波氏土成町で暮らした土御門(つちみかど)上皇の火葬塚。
三つ目は、平安時代の女流作家であり歌人としても名高かった清少納言の墓。
一般的には三つ目の、あま塚=清少納言の墓として知られています。
時代を越えて語り継がれる有名人・清少納言は、中宮・定子が亡くなる西暦1000年頃まで宮仕えをしていたそうです。宮仕え後の詳しい足跡はほとんど判明しておらず、そのためか全国各地に墓があります。
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お店の写真
お堂正面の看板
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5月上旬の大フジ(イメージ)
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清少納言のお墓も設けられています
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お堂の斜め前にある、お百度参りの石
鎌倉時代に残された清少納言のその後のエピソードは、才媛を快く思わない当時の世相を反映してか悲惨な物語が多く、里浦町にも、「罪を犯して都を追われ、海に流されたら里浦に着いた。心の無い里の人間が清少納言の身ぐるみを剥ぎ殺してしまった」という逸話が残されているそうです。
お堂の正面には白い大フジの棚が用意されており、毎年5月の上旬、上向きに白い花を咲かせています。

●あま塚正面にある看板の原文●

「あま塚」には、いろいろな説がある。
「日本書紀」に出てくる海人の男狭磯をまつった「海人塚」説、
承久の変で土佐に流された後、阿波で崩御された土御門上皇の
火葬塚すなわち「天塚」であるという説もある。しかし、世俗では
平安時代の女流作家 清少納言の供養塚としての「あま塚」
説が有名である。
伝説によれば都落ちした清少納言は地元の漁師にはずかしめを
受け、それを苦にして、海へ身を投じたといわれている。
その供養のため「あま塚」を建てたもので、婦人病や安産に
霊験あらたかなりとして女性の参拝者が多い。
また 前庭に植えられた大フジは、5月の上旬、上向きに白い
花を咲かせることで知られている。

鳴門市商工観光課

基本情報

名称 あま塚
住所 鳴門市里浦字坂田 [地図]
電話番号
営業時間
定休日
駐車場

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