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小宰相局の墓
語り継がれる平安末期の悲話 小宰相局を祀ったお墓 | 【旅行・宿泊・観光】 |
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小宰相局の墓
こざいしょうつぼねのはか
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TEL. ― | 更新日:2012年02月14日 |
最終更新日: 2012年02月14日
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小宰相局の墓の紹介
写真
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小宰相局の墓の墓の目印 ※この先は車での侵入困難
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急な坂ですが距離は短い
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お墓の目の前には(今は木が茂っていますが)小鳴門海峡
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歩いて5分程度のところにある[紀貫之の歌碑]もどうぞ
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その他情報
●小宰相 生涯●
上西門院(鳥羽天皇の皇女、後白川天皇の姉)の女房として仕えていた折、法勝寺の花見にお供した当時15・6歳の小宰相。その姿に通盛は一目で恋に落ち、恋文を3年もの間送り続けたそうです。小宰相は返信もしない終始つれないそぶりでしたが、上司である上西門院の仲立ちにて結婚することになりました。結婚後、二人はおしどり夫婦として宮中でも評判になります。
やがて治承・寿永の乱が始まり平家一門は都落ち。懐妊中だった小宰相は夫婦ともども流浪の身となります。
1184年、通盛は義経による逆落とし(断崖絶壁を馬で下る)のエピソードで有名な[一ノ谷の戦い]にて戦死。夫を待ちつつ屋島へ向かう途中だった小宰相は、何度か送られたその報に夫の死を確信。
常々『通盛いかになるとも、汝は命を捨つべからず。いかにもし、ながらへて、御行方をも尋ね参らせよ』(『平家物語』より)と言われいたにも関わらず、入水を図ろうとします。しかしここは、「子を産み、尼となりましょう」との乳母からの説得により一度は阻まれました。この時船が停泊していたのが、鳴門町土佐泊だったと伝えられています。
夜半、乳母がふと目を離した時、小宰相は海に身を投げていました。乳母は第一発見者の船頭らと共に、既に息絶えていた小宰相の体に通盛の鎧兜をくくりつけ、二度と人目にさらされぬよう泣く泣く海に沈めました。
夫に先立たれた妻は尼となるのが普通だった当時、この小宰相の一途な行為に人々は感心。「中心は二君に仕えず、貞女は二夫にまみえず」と口々に言い合ったそうです。
『平家物語』以外の書物にもこのエピソードは記されており、『通盛』という名で能の作品ともなっています。
上西門院(鳥羽天皇の皇女、後白川天皇の姉)の女房として仕えていた折、法勝寺の花見にお供した当時15・6歳の小宰相。その姿に通盛は一目で恋に落ち、恋文を3年もの間送り続けたそうです。小宰相は返信もしない終始つれないそぶりでしたが、上司である上西門院の仲立ちにて結婚することになりました。結婚後、二人はおしどり夫婦として宮中でも評判になります。
やがて治承・寿永の乱が始まり平家一門は都落ち。懐妊中だった小宰相は夫婦ともども流浪の身となります。
1184年、通盛は義経による逆落とし(断崖絶壁を馬で下る)のエピソードで有名な[一ノ谷の戦い]にて戦死。夫を待ちつつ屋島へ向かう途中だった小宰相は、何度か送られたその報に夫の死を確信。
常々『通盛いかになるとも、汝は命を捨つべからず。いかにもし、ながらへて、御行方をも尋ね参らせよ』(『平家物語』より)と言われいたにも関わらず、入水を図ろうとします。しかしここは、「子を産み、尼となりましょう」との乳母からの説得により一度は阻まれました。この時船が停泊していたのが、鳴門町土佐泊だったと伝えられています。
夜半、乳母がふと目を離した時、小宰相は海に身を投げていました。乳母は第一発見者の船頭らと共に、既に息絶えていた小宰相の体に通盛の鎧兜をくくりつけ、二度と人目にさらされぬよう泣く泣く海に沈めました。
夫に先立たれた妻は尼となるのが普通だった当時、この小宰相の一途な行為に人々は感心。「中心は二君に仕えず、貞女は二夫にまみえず」と口々に言い合ったそうです。
『平家物語』以外の書物にもこのエピソードは記されており、『通盛』という名で能の作品ともなっています。
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