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予科練習生救助顕彰碑
戦争の悲劇と地元民の勇気を伝える | 【旅行・宿泊・観光】 |
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島田島
予科練習生救助顕彰碑
しまだじま よかれんしゅうせいきゅうじょけんしょうひ
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TEL. ― | 更新日:2012年02月15日 |
最終更新日: 2012年02月15日
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予科練習生救助顕彰碑の紹介
終戦間際の昭和20年8月2日。
宝塚海軍航空隊の飛行予科練習生109名を乗せた期帆船[住吉丸]は、鳴門市撫養港を出港し、淡路にある阿那賀港に向っていました。
そこに現れたのは2機の米軍航空機。当時平均年齢16歳程度の練習生たちは、敵機の猛攻により次々に落命。一瞬のうちに五十六名の命が失われました。
さらに、海に逃げ延びたものも鳴門海峡の急流に翻弄されます。
自分たちの海で起こっている悲劇を聞きつけた地元民たちは、わが身の危険を顧みず、漁船を繰り出します。
海上から救い出された17名、船中にいた10名以外は、実に82名もの尊い命が失われました。
この悲劇と地元民たちの勇気を後世に伝え、そして戦争のない世界の恒久平和を祈念して、平成3年にこの石碑が作られました。
宝塚海軍航空隊の飛行予科練習生109名を乗せた期帆船[住吉丸]は、鳴門市撫養港を出港し、淡路にある阿那賀港に向っていました。
そこに現れたのは2機の米軍航空機。当時平均年齢16歳程度の練習生たちは、敵機の猛攻により次々に落命。一瞬のうちに五十六名の命が失われました。
さらに、海に逃げ延びたものも鳴門海峡の急流に翻弄されます。
自分たちの海で起こっている悲劇を聞きつけた地元民たちは、わが身の危険を顧みず、漁船を繰り出します。
海上から救い出された17名、船中にいた10名以外は、実に82名もの尊い命が失われました。
この悲劇と地元民たちの勇気を後世に伝え、そして戦争のない世界の恒久平和を祈念して、平成3年にこの石碑が作られました。
その他情報
●石碑の原文●
予科練習生救助顕彰碑
大東亜戦争(太平洋戦争)の終結を目前に控えた昭和二十年八月二日、宝塚海軍航空隊甲種飛行予科練習生ら百九名は、杉本海軍大佐指揮の下に鳴門要塞増強工事の任務を帯び鳴門市撫養港を木造機帆船住吉丸で出港し、鳴門海峡を淡路島阿那賀港に向かっていた。
正午過ぎ、鳴門市島田島の沖合約二キロに差しかかった時、米軍機二機の空襲を受け、船体は大破し、たちまちにして五十六名が戦死、生存者は鳴門海峡に飛び込み急流に翻弄されながら漂流した(十名は船に残留)。
これを知った鳴門市粟田・北泊・大島田・室の地元民が敵機の飛び交う会場を漁船で出動し必死の救助の結果十七名を救出したが、他の二十六名は若い生命を失い、計八十二名の戦死者が出た。当時、我が国は軍機保護の立場から厳しい報道管制下にあり、この悲惨な出来事は長年埋没されてきた。
近年、この史実が明らかとなり人心がすさみがちになる戦時下において、わが身の危険をも顧みず決死の覚悟で多くの生命を救った人間愛は、世の人々に深い感銘を与えた。
ここに、世界の恒久平和を祈念するとともに、慈愛に満ちた勇気ある鳴門市民の行為を後世に永く顕彰する。
平成三年十二月吉日 編消費建立実行委員会
予科練習生救助顕彰碑
大東亜戦争(太平洋戦争)の終結を目前に控えた昭和二十年八月二日、宝塚海軍航空隊甲種飛行予科練習生ら百九名は、杉本海軍大佐指揮の下に鳴門要塞増強工事の任務を帯び鳴門市撫養港を木造機帆船住吉丸で出港し、鳴門海峡を淡路島阿那賀港に向かっていた。
正午過ぎ、鳴門市島田島の沖合約二キロに差しかかった時、米軍機二機の空襲を受け、船体は大破し、たちまちにして五十六名が戦死、生存者は鳴門海峡に飛び込み急流に翻弄されながら漂流した(十名は船に残留)。
これを知った鳴門市粟田・北泊・大島田・室の地元民が敵機の飛び交う会場を漁船で出動し必死の救助の結果十七名を救出したが、他の二十六名は若い生命を失い、計八十二名の戦死者が出た。当時、我が国は軍機保護の立場から厳しい報道管制下にあり、この悲惨な出来事は長年埋没されてきた。
近年、この史実が明らかとなり人心がすさみがちになる戦時下において、わが身の危険をも顧みず決死の覚悟で多くの生命を救った人間愛は、世の人々に深い感銘を与えた。
ここに、世界の恒久平和を祈念するとともに、慈愛に満ちた勇気ある鳴門市民の行為を後世に永く顕彰する。
平成三年十二月吉日 編消費建立実行委員会
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